「何でも欲しがる女」のこと

少し前の話だが、自民党野田聖子議員(50)が体外受精男児を出産した。


彼女の頑張りに、多くのメディアは祝福ムードだったと思う。だがウェブ上に溢れていたのはむしろ、彼女をあざ笑う罵詈雑言の数々だった。週刊誌も酷い。男性向け、女性向けを問わず、彼女の高齢出産を「ダシにする」記事が多かった。

「え、そこまで凄かった?」って思う人は、“野田聖子 出産”とかでググってみて下さい。


「キャリア女性の高齢出産」が、30代向けの女性誌でとりあげられるようになってから、しばらく経つ。米澤泉によれば、これは「負け犬」が流行語になった2004年あたりからみられる傾向らしい*1



キャリア女性の出産や育児を考えるとき、必ずつきまとうのが、「何でも手に入れようとする女」というイメージである。



「仕事上の地位も、美貌も手に入れた。あとは子どもだけ!」みたいなキャリア女性のイメージが、高齢出産や不妊治療と結びつくとき、なぜかそこに「強欲な女」像ができ上がる。



先ほどの米澤泉も、そんな女たちのことを「強欲」とまでは言っていないが、自己実現的な出産や育児を評して「小道具」ならぬ「子道具」と述べる。実にキャッチーです。




だがそもそも「何でも手に入れようとする女」など、現実にいるのだろうか。 そういう女がいるとして、その女は本当に、「何でも手に入れようとする」だけの存在なのか。



たとえば野田議員が「産むこと」の裏には、色んな葛藤があったはずである*2。それでも最終的に、産みたいと思ったから産んだ。彼女をバッシングする人たちは、当たり前だがそういう過程をすっ飛ばし、単なる「強欲な女キャラ」として叩いている。



そのほうが、彼女を試行錯誤するひとりの“人間”として見なさなくても済むからラクなのだろう。だが実際は、欲望「だけ」で突っ走れるほど不妊治療は甘くないと思う。



ところで多くの会社にとって、まだまだ女性社員の出産や育児はコストでしかない
この社会=会社で、男に頼らず生きようと思ったら、普通は「男のように生きるしかない」ようだ。それも「立派な男」である必要があるそんなの、今の自分にはとてもできる気がしないから本当は働きたくな


そんな会社=社会のなかで子どもを産んで休めば、何かが変わってしまう。そう思ってバリバリ働いてきた。そうして今やっと「欲しがる女」を、「何でも欲しがったから」という理由だけで責められるはずはない。


そもそも女たちは、「欲しがる」ばかりでなく「欲しがらされている」可能性だって十分にある。ジラールを待つまでもなく、欲望は常に他者の欲望である。また「欲しがらされている」からといって、その女のやっていることを一方的に非難してよい、とはならない。




だが「彼女を非難したい人たちが、何を望んでいるのか」も、ある程度は分かる気はする(共感はしたくないが)*3



欲しがることに、やっぱり妙な罪悪感があるからだ。女の欲望が、何かと両立しない。女が何かを欲望し手に入れることが、ある規範と矛盾してしまう。※資本主義とは矛盾しないんですけどね。だからこそ、バッシングする人たちは「出産という自然」を賛美します。


……私が自己の欲望を語るのをおそれる理由はここにあって、「何でも手に入れようとする女」であると見られることが、単純に怖いのかもしれない。




次回は“もう1人の聖子”=松田聖子と「欲しがる女」の条件について書こうと思います。引き続きお読み下さると嬉しいです。*4

*1:『私に萌える女たち』講談社、2010

*2:彼女はその辺のことを、『私は、産みたい』という本に著している

*3:もちろん彼女が政治家で、めぐまれた境遇にあることも影響しているだろう。それ以外の「バッシングの原因」は、次の記事に書いてみます

*4:このテーマは以前ツイッターで、あるフォロワーさんから頂いたコメントがきっかけになって書きました(許可は頂いています。)