橋下市長VS学者たち 〜「文句はないから結果出せ」でOKだと思うの〜

こんにちは!かやです。東京では昨日、申し訳程度に雪が降りました。地元はちょっとした雪国(ってどんなだよ)なので、凍った雪道を歩くのが割と得意な私です。


先日のブログ『橋下市長を支持する「普通」願望』では、について考えました。彼の批判する「既得権益」は一部の大金持ちではない。経済格差が拡大する中、「普通の生活」を実現できている層こそが既得権益なので
す。


この記事には多くのコメントをいただきました。記事を書いた後も橋下市長の勢いは衰えることなく、高い支持率をキープしているもよう…。


そんな飛ぶ鳥を落とす勢いの橋下市長とテレビ討論をした研究者たちは、皆こてんぱんにやられているようです。例えば政治学者の中島岳志氏や山口二郎氏、エコノミストの浜矩子氏。森永卓郎氏も朝日放送の討論で「フルボッコ」にされたとか…。普段偉そうなことを言っている学者先生らが、ぐうの音も出ないほど打ちのめされるのを見て、視聴者はスッキリ爽快な気分を味わったでしょうか。


政治学者や経済学者は皆、橋下市長に「文句言うならお前がやってみろ」と言われて黙ってしまいます。視聴者はそれを見て溜飲を下げる。結果的に橋下氏が勝ったように見えるわけですが、まあ完全にパンとサーカスですよね。彼のやり方は、彼自身が『図説・心理戦で絶対に負けない交渉術』(日本文芸社)で手の内を明かしている通り、非常に単純かつテクニカルです。


そもそも学生や同業者相手にしか講義しない研究者と、弁護士タレント出身の政治家がディベートしてどちらが勝つかは目に見えています。弁護士の仕事は基本的に「こちらの要求を相手にのませること」です。それをなりわいとし、さらにタレントとしても活躍していた彼がテレビという「現場」で負けるわけがないのです。




中島氏らに対し、彼はTwitterで次のようにコメントします。


この中島とか言う学者に改革の一つでもやってもらいたいよ。大阪市の特別参与と言うポジションをを与えるからさ。学者も税金をもらっているんだから厳しく評価しなければならない。行政の改革をやらせてみたらいいんだ。まあこの中島氏、市役所で会議一つも開けないだろうけど。ほんと税金の無駄。」


報道ステーションサンデーの録画を見たけど、また浜と言う同志社の教授が出ていた。長々と放して[原文ママ]いたけど、結局具体策は何も言わず。だから何をどうしたら良いのか一つでも言ってみなさいよ。結局分かち合いの仕組みをしっかり作ること、富の配分をしっかり作ること、これしか言わなかった。」




彼独自の「お前もやってみろ論法」ですね。これを言われると、研究者は為政者ではないので黙るしかない。




彼が上手いのは、「相手に譲歩したように見せかけ、自分に有利な前提で話を進める」点です。この場合、自分を批判する相手に「大阪市の特別参与というポジションを与えるからさ」と言って一瞬、譲歩したように見える。でも相手はそれに乗ってこない人間、ということが彼には分かっている。そこで「ほーら俺が譲歩してやってるのに何もできないだろ、口ばっかり」と打ち負かすことが可能になるのですね。うーん、絶対口ゲンカはしたくないタイプ…だって最初から負けてるもの。うますぎるんですよ。



ただひとつ思うのは、こんな時代の研究者に必要なのはこの手のテレビ討論で勝つことではなく、むしろテレビを見ている「一般大衆」(とあえて言いますが)に語りかけることじゃないか、ということです




とはいえ難しいのが、橋下市長を盲目的に支持する層がいたとして、彼らに語りかけることがそもそも可能なのかってことですよね。それこそテレビ以外の場所で




中島氏は自身のブログで橋下市長の交渉テクニックを詳細に分析しています。そして「橋下氏の巧みな操作を見破らなければなりません」「テレビを見ながら、『今は○○というテクニックを使ったな』と冷静に分析することができれば、彼の主張の『おかしさ』を的確に見抜くことができるようになります。」と言う。





嫌味に響くかもしれないけれど、学者の役割ってそもそも「人々の啓蒙」ではなかったか…相手は橋下市長とは違うところにいるのですハシズムに対峙する研究者は、「橋下市長の手法は〜で、だからあなたは支持したくなるんだよ。盲目的になるのも良いけど、なぜ自分がそれほど彼を支持するのか、その背景を考えてみるのも良いんじゃないですか」位のことは言えると思う。それ以上言うと「じゃあお前がやってみろ」の罠にかかってしまいます。



「文句言うならお前がやってみろ」との主張には、「文句は言わへんからホンマに結果出せや」と言い返せばよいのに。





橋下市長が何をやってくれるのか、私もしばらくは静観したいと思います。
結果出してもらいましょ。おおきに。



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毒を抜かれた小悪魔ageha

前回のブログには想像以上に反響があり、嬉しいやら恥ずかしいらです。というわけで誰も覚えてないと思いますが「次回はagehaネタで」と書いてしまったので、2月号が発売されて久しい(小悪魔agehaは月刊誌で1日発売です)のですが、元総合編集長中条氏が去った直後の『小悪魔ageha』について書こうと思います



中条氏が辞めた『小悪魔ageha』はズバリ少しずつ毒を抜かれています



彼女が去って初めて出た1月号では「X'mas着回し特集」が組まれ、他の赤文字系雑誌と同レベルの欲望を煽ることに終始しているように感じます。なによりモデルの写真が修正されすぎて皆同じ顔に!以前はもっと、1人1人一人ひとりが強烈に主張していたのですが…。


発売から全号全巻、揃えるほど熱心な読者である自分にとって、そんなagehaを読むのは辛かった。まず、タイアップ記事の多いこと多いこと。もちろん今までのようなマニアックなメイク、ファッション特集もあるのですが、所々でこれまで見たことのないような(優良な?w)企業とのタイアップや広告が増えている小悪魔agehaの信条が毒を抜かれている感じ。



そういえば、agehaならではのコピー(例:髪型特集で「視線そらしてハットトリック流し☆」とか「急降下すぎるけど大丈夫スジストレート」とか)も、ここ数ヶ月はキレが失われていた。たとえば12月号の、「彼氏への愛がいっぱい!ハート型ハーフアップ」。こんなネームなんて今どき、10代向けギャル雑誌「popteen」や「Ranzuki」でもやりません…



元総合編集長の中條氏は、ある雑誌の連載で「編集の仕事は麻薬のようなもの。納得のいくネームができるとそれ以上のネームを考えたくなる。書けないと苦しくなる」と言っていました。彼女が去ったagehaからは、以前の「時々変な方向へ行っちゃうこともあるけど妙に目が離せないネーム」が消えた気がします。



また1月号のagehaで特に残念だったのは、「さとみんX'mas24daysラブコーデ」特集。クリスマスまでに彼氏を作る着回しコーデって今時、部数の落ちたJJですらやらないよね、と、残念な気持ちに。




小悪魔agehaは「クリスマス着回し特集」みたいな赤文字系のテンションに手を出してはいけなかったのです。ああいうのは本物のスイーツがやるから微笑ましいのであって、四六時中病んでるage嬢たちがスイーツと同じ事をやったら痛々しくなってしまう。



X'masまでに彼を作る着回し特集やお部屋拝見!みたいな特集は、agehaが売れてきた要因である「モデルの強烈な個性」を潰してしまうのです。クリスマスまでに彼氏を作りたい女なんて、固有名を持ったagehaモデルである必要はない。誰が「主演」しても一緒なのです。



CanCamに代表される赤文字系雑誌はよく、着回し特集で主演するモデルの、特集上での属性を「東京生まれの24歳。都内女子大卒業後、大手メーカーで働く。付き合って5年目の彼とは安定した関係で、そろそろ結婚も意識中」みたいな感じで設定します。だけど、こういう薄ーいキャラ設定をagehaがマネしても駄目なんですよ



なぜなら、そもそも地方でよく売れるagehaの読者は「東京生まれの24歳OL」ではなく「大手企業の営業アシスタント」で働けるほどのコネも持っていないからです。社会的な属性によって読者の共感を得るキャラを設定するのは無理なのです。だからこそagehaは、モデルの強烈な内面を打ち出すことで部数を伸ばしてきた。




中條氏が辞めたagehaは、赤文字系雑誌をマネして「X'masまでに彼氏を作る着回し特集」を組んでいます。主演のキャラ設定は、特に内面的個性のない「内気な恋はしない主義の、恋に強気ガール」。これは別に、人気agehaモデルのさとみんがやる必要はないでしょう…中身のない女の子の役は、誰がやっても同じです。さとみんの個性も全く活かしきれていません。



agehaの読者は、地方に住み東京に憧れるフリーターや学生、都市郊外のキャバ嬢などバラバラです。でもそれぞれが、ageモへの憧れと、時々企画される「病み特集」への共感でうまいこと繋がっている。だからモデルの個性を消す「着回し特集」は、やってはいけなかったのですモデルの個性をうまく消すのは赤文字系の専売特許なので、モデルの個性を売りにしていたagehaが下手に真似すると失敗するのですagehaはモデル達の「経験の固有性」によってファンを獲得してきたのだから。




中條氏は以前「私は赤文字系雑誌読者の生態がわからないし(略)「合コン行って電通マンをゲットする」みたいな文化があるのかもしれないけど(略)こっち側の文化は「モテ」は関係ないんです」と言っていました。



そんな彼女がageモを選ぶ基準は「誰にも似ていないか、苦労してる感じがあるか」。



CanCamが「痩せて綺麗になって彼氏を作る!」特集をやるなら、agehaは「アイツ以上が現れない…只今、思い出刑務所服役中」をやらなきゃいけない。CanCamが「一重さん奥二重さん必見!愛メークでデカ目になろう!愛は小粒目を救う!」なら、agehaは「一重だって奥二重だってメザイク*1を使って努力すれば二重になれる」とあっさり言ってのける。age嬢はメイクに男の愛を必要としないのです。愛=男は裏切るけど、メイク技術は裏切らない




また彼女は小悪魔agehaの部数をやみくもに伸ばすことは望んでおらず、「本当に必要としている女の子だけが読んでくれる深夜放送的な雑誌」でいたいと言っていました。でも株主や上層部が変わって、そうもいかなくなったのでしょうか。



彼女が抜けた1月のagehaには「決め手は男ウケファッション!」のコピーが踊り、2月号には靴下の付録がつきました。


かやはagehaがどうなろうとも読み続けますが、男ウケ・モテファッションが見たいのであればCancamで十分かも…とも思います。まあ結局、今月もageha買っちゃったんですけどね。2月号のagehaのお話はまた今度〜。


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*1:二重を作るメイク道具です

スクールカーストを生き抜くためのキャラ

最近の若者はキャラによって自分を演じ分けているらしい。中学生を対象とした調査*1によると、教室内での地位とキャラに対する考え方には相関があるそうです。これが本当に若者のリアルを現しているかはわかりませんが、集団の中での自分を、キャラという側面から考えてみるのは面白いと思います。



突然暗い話題で恐縮ですが、自分は小学校から中1まで完全なる「仲間外れキャラ」でした。いじめられっ子というわけではなかったのですが、3人グループにいるといつの間にか自分以外の2人が仲良くするようになっている。こっちは3人で仲良くしたいのに、あちらは私を除いた2人でどんどん仲良くなっていくのです。これが割と辛かった…義務教育期間はもう友達関係が全てですから



どうにかしてその2人の間に入ろうと、ときには媚び、ときには他人の悪口まで言い、仲良くしてもらおうとするわけです。ところがそんな行動を取れば取るほど、自分以外の2人は離れていってしまう。



自分は中くらいのグループにいたのでより上位のグループに入れてもらおうと必死だったのですね。あの子たちと仲良くできるなら、他の子の悪口だって言っちゃうぞ。でも私だって、誰かから影口を叩かれているかもしれない。昨日の親友は今日の敵です。まさに戦国小学生時代…



そんな学校生活に齢13にして疲れ切った私は、中2で「誰の悪口も言わない=特定の誰かに肩入れしない」「いじられキャラになるのを厭わない」ことを決めました。


女子には他のグループの悪口を言うことで連帯を強くする因習があります。でも当時の私のように、特に立場の弱い人間などは言った内容がそのまま告げ口されて伝わり、自分の立場を危うくしてしまう。それならもう誰の悪口も言うまい。


当時はミニモニ。が流行っており、ツインテールにしていた私は友達から「ロリコンロリコン」といじられていました(今思えば意味不明ですけど)。初めは嫌だったのですが、そのうち「これはもしかして、オイシイのではないか」と思うようになりました。そして「人の悪口を言わないこと」、「いじられても嫌な顔をしないこと」を徹底したのです。するとグループ抗争に巻き込まれることもなく、そこそこ快適な学校生活を送ることができました。いじられている間はみんなで楽しく過ごせるうえに、人の悪口を言わないことによって敵も作らないからです*2

人の悪口さえ言わなければ誰からも攻撃されることはない。あったとしてもその相手からの攻撃にそれほどの根拠はないので、こちらが不利になることはありません。女子のグループ内でうまくサバイブするには、徹底して相手を攻撃しないことなのです



人の悪口を言わないようにするためには、人の噂話に興味を持たないことも重要です。他人のゴシップにやたらと首を突っ込むのは、その人の悪口を言っているも同然だからです。



そうしてひょうひょうと過ごしているうち、かやは「変わってるけど良い子」キャラを確立しました。このキャラは割と楽で、時々変なことを言っても「あの子変わってるから」で見逃してもらえます*3



高校時代にはすっかり、「良い子だけど時々空気を読まない真面目な変わり者キャラ」が完成していました。当時のクラスの女子は幾つかのグループに分かれており、それぞれが互いをゆるーくdisり合いつつ共存していたのですが、そんな中でも私は徹底して、人の悪口を言わなかった。かつ、「変わってるねー」といじられてもそれを否定することなく、ニコニコと笑っていたのです。



このキャラを貫くと結果的に、グループのリーダー格のなりそうな強い女子が守ってくれるようになりました。強い女子は義を重んじるのです。寄らば大樹の陰と言われそうですが、かやはそんな自分のことを、そこまでズルくはないと思っています。自衛のために良い子を貫いただけなので…。




冒頭で少し触れましたが、中学生を対象とした調査*4では、教室内での地位が「低」または「いじられ」である場合に「自分はキャラを演じている」と回答する率が高いそうですスクールカーストの上位者は周りに対して「自分」を堂々と認めさせることができるけれど、それ以外の子たちは適当にキャラを演じてサバイバルしている。殺伐とした教室のリアルが目に浮かぶようですね。



私などまさにその典型で、クラスでの地位が「中」かつ「いじられ」であったため、「ちょっと変わった良い子キャラ」を作ってなんとかサバイブしてきたわけです



さて、そのキャラは次第に顔から剥がせなくなり、今に至ります。まあ別にいいんですけれどね、そこそこ楽しいし快適だから。あと人の悪口を言わないのは、精神衛生的にも良い。


ただ「人の悪口さえ言わなければこちらが攻撃されることはない」という私のスタンスは危うくもあります他人の悪い面を見ないようにしているうち、他人の性格や発話自体に興味を失ってしまうのですオイディプス王じゃないけれど、自分の目を潰してしまえば何も見なくて良いから楽なのですね。というわけで、かやは友達の悪い面を見なくなった代わりに、他人への興味も少し失って今に至ります。人の噂話どころか、人にすら興味がない…見る人が見たら、かやってイヤな奴でしょうね。



神戸連続児童殺傷事件の少年Aは自分を「透明な存在」と表現しました。この言葉は多くの10代の心を捉え、「共感」を集めたそうですが、自分もある意味「透明な存在」でやってきたのだと思います。今になって思えばどんなグループにも溶け込めるよう、ときには余計な自我を消すことも必要だったのだと。や、別に私は酒鬼薔薇聖斗本人に対して特別な親しみを抱いたりはしませんが


長々と自分語りにお付き合い頂きありがとうございました。次回は得意のagehaネタでいきたいと思いますw ではではっ


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*1:『若者の気分――学校の「空気」』岩波書店.2011.

*2:そのようにして仲良くなった友達と薄っぺらい友情しか築けないということもなく、彼女たちとは未だによく連絡を取ったりする

*3:ただこのキャラにはデメリットもあります。他人を攻撃しない透明な「良い子」だから、相手が都合の良いイメージを投影しやすいのです。だからこそ私が違う一面を見せた途端にドン引きされることもある。まあそれも「変わってるから」でごまかせたりするので、何とかなりますが。

*4:『若者の気分――学校の「空気」』岩波書店.2011.

橋下市長を支持する「普通」願望

こんにちは、kayaです。今回はリア充について触れつつ、若者たちの「普通」願望を掘り下げてみたいと思います。リア充とはご存知、ネットスラング発祥の「現実生活が充実している奴ら」を指す言葉。この言葉が、誰のどんな思いを体現しているのでしょうか、というお話です。



政治学者の中島岳志氏によれば、日本を覆う空気を「リア充への苛立ち」と「リセット願望」だといいます週刊金曜日での連載で彼は、大阪で橋下市長の圧勝を後押ししたのもこの2つの心であると解説していました。とにかく自分より恵まれている存在=「リア充」たちが気に食わない。閉塞感のあるこの社会を、一旦リセットしてくれ…そんな思いが「ハシズム」を後押ししたのです。



中島氏も引用した赤木智弘氏は、社会が流動化すれば貧乏人も豊かな人間も皆平等になる、だから「希望は戦争」と主張しました。「31歳フリーター」であった彼はロスジェネ論壇の牽引役となり、「年寄りに搾取される若者世代の不遇」イメージを広く共有させるきっかけとなった。その論考をリアルタイムで読んだ当時大学生の自分は、「ロスジェネ」世代の彼が「専業主婦は既得権」と主張し、「男にも主婦になる権利を」と言うのを複雑な思いで見ていました。



赤木氏が本当に許せないのは、生まれながらの金持ちである「一部の権力者」ではなく、「私のような貧困労働者を足蹴にしながら自分の生活を維持している(略)多数の安定労働者」であるといいます。その中には当然、夫の稼ぎで生活できる主婦や、正社員のサラリーマンが含まれます。彼らは決して大金持ちではない。だが「普通の生活」を送ることができる、日本のマジョリティです。



「不安定労働者」であるところの自分がもう少しで手が届いたはずの「普通の生活」。それなりの安定雇用に就き結婚もできる、世帯年収500万くらいの生活でしょうか。赤木氏はそれほど、高望みをしていないと思います。だがその「普通の生活」を享受できる層こそが、彼にこの国の「不平等」を実感させる。



彼だけに若者を代表させるつもりはありませんが、「今の若者」は本当に高望みをしていません。多くの若者は「本当の大金持ち」の生活を目の当たりにすることはないし、そんな一握りの特権階級になりたいとは思っていない。若者たちは、過去20年に渡って富裕層への減税が続けられ、大金持ちと貧困層の格差が拡大したのを実感する機会もありません。生まれた時から階層ごとに分断された社会だったからです。大金持ちを知らない彼らは、ただ「普通の生活」が送りたいと願うのみ。高望みをするつもりはありません。



ところで彼らの考える「普通の生活」とは、だいたい親世代が基準になっているようです。若者たちは漠然と「うちの親みたいな生活が送れればいいな」と考えている。ただ、右肩上がりの時代がとうに終わった現代の若者たちが親世代と同じ生活水準を実現するには、かなり頑張らないといけません。



現にサラリーマンの賃金カーブのピークは20年前と比べて100万円近く下がっているのに、私立大学の学費は30年間で4倍、国立大学の学費にいたっては15倍になっています。大学進学率は一貫して上昇し続けているので、昔のように父親+パートの母親だけの稼ぎでは「普通の生活」もギリギリ維持できるかどうか。だからこそ親世代の「普通の生活」が魅力的に映るのかもしれません



高望みはしない、セレブなお金持ちにはならなくていいから「普通の生活」がしたい。でもその「普通の生活」が得難くなっているのが今の日本なのです。ところが若者たちには決して「高望みしている」意識はありません。当たり前ですよね。少し前までは普通に実現できていた生活を、今さら「アンタらには贅沢だ」なんて言われて納得できるわけがない。この点、若者たちは別に悪くない。でも、だからこそ「手に入れられる(はずの)普通の生活をなぜ自分が手に入れられないのか」という苛立ちは大きくなるでしょう



「普通の生活」を送ることができる層へのルサンチマンは、「既得権益としてのリア充」をバッシングする心と似ています。手に入りそうで入らない「普通」を体現した羨ましい奴ら…自分にもその特権をよこせという。



「普通の生活」が得らないことに憤る人々にとっては、それを享受する「普通の人たち」こそが特権階級に映るのです。地方公務員バッシングが良い例ですよね。こういう時代に公務員批判をすると、簡単に支持が集まるから政治家は楽でいいと思います。



ただそれほどお金を持たない地方公務員から絞り取るよりも、日本で数%の大金持ちが保有する数十兆円の金融資産に課税した方が、よっぽど多くの税収が得られるとは思いますが。真の問題から目を反らすために、特定の層を叩く。本当の格差を見えなくしておいて下の方で潰し合ってくれている方が、上にとっては楽なのかもしれません。「普通」って何なんでしょうね。

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中條編集長が去ったagehaに付録がついてもはや宝島社ですかと

こんにちは、かやです。もうすぐクリスマスですね。いかがおすごしでしょうか。私は例のごとく、仕事から帰った後はブログ書いたり本読んだり、充実した引きこもりライフを満喫しております。さてさて、今回は「元」小悪魔ageha総合編集長の中條寿子氏と付録の話を。


「元」というのは、彼女が先月でインフォレスト社を退職し、ageha編集長ではなくなったからです。諸事情あったのでしょうけれど、中條氏がagehaからいなくなるのは自分にとって色々と感慨深い。彼女は先日の「週刊金曜日」の連載で、雑誌の付録について語っています。「『付録をつければ売れるんだから何でも良いからつけろ』と暗におじさまたちからにおわされ」ていたとか。その証拠に、中條氏が去った2月号(1月1日発売)のアゲハには初の付録がつきます。


付録といえば、2001年に日本雑誌協会「プラスチックや金属を使った付録の流通に関する自主規制」を緩和し、2002年頃から一部の雑誌が特別な号だけに付録をつけ始めました。2008年からはご存知、宝島社の『SWEET』が付録で大躍進し、今では付録のない女性誌の方が珍しくなりました。まさに“付録バブル”その中で中條氏率いるagehaは、頑なに付録を拒んでいたわけです。


付録バブルになってからというもの、中條氏は周囲からたびたび、「なんで付録つけないんですかー」と言われるようになったといいます。私の周りでも雑誌はまず付録を見て買うか決めるという子は多くて、付録のおまけが雑誌って感じです。まるでチョコエッグですね懐かしい。



この3年で、雑誌の買い方・選び方はガラリと変わりました。ファッション誌に求めるものが情報(コト)じゃなくて付録(モノ)になった。消費者が即物的になったといえばそれまでしれません。まあその即物的な欲望を煽っているのは誰なんだって話で、ファッション誌の発行部数が下落し続けるなか、雑誌がライフスタイルを売るなんてのは幻想にすぎないのです。1970年に創刊されたan-anさえ不惑を過ぎ、雑誌のあり方も変わらざるをえないのでしょう。



80年代の女子大生ファッション*1はJJを始めとする女性誌と共に広がったけど、今の女子大生はもう、雑誌を読まないのです。彼女たちがおしゃれの参考にするのは好きな有名人のブログや、街行く人々。雑誌を買うのは付録のためだけです。



米澤泉氏はこれを、「女性誌はブログとフロクに行き着いた」と評しています*2特定のモデルを支持する女の子たちは、そのモデルが雑誌で着ている服が所詮、モデル本人ではなくスタイリストが考えたものだと気づいているわけです



モテ系女性誌Cancamのモデルの私服なんて、全くといってよいほどモテ系じゃないですしね。むしろモード系だったりする。だったら直接、モデルのブログを見たほうが早いのです。雑誌よりずっと素の姿に近い彼女たちを見ることができるから。まあブログだって所詮幻想かもしれませんが、雑誌の幻想よりは多少なりともリアルなのでしょう…。



ところで、agehaの中條さんはとある人気女性誌編集長に「付録はシャブよ。一度入れたら抜けられなくなる」と言われたことがあるそうです。抜けられなくて苦しむ編集者が沢山いるとか。付録が重くなればなるほど、雑誌の中身は軽くなるということかもしれません。100万部を超えた宝島社のSWEETが良い例ですね。



女性誌が付録をつけるようになってから、特に若年層向けの雑誌では赤文字系(モテ系)と青文字系(カジュアル系)の区別が緩くなってきたように思います。部数を伸ばす元祖青文字系の宝島社が、赤文字モテ系ブランドに声をかけている(または赤文字系ブランドから宝島社に、部数を見込んだタイアップの引き合いがある)からか。



島社のSWEETが公称100万部を超えたとき、中身を見てみたらタイアップが95%でびっくりしたのを覚えています。それまで青文字系ではなかったブランドや歯磨き粉や温泉宿(!)まで、100万部という数字を出したSWEETに皆が群がっている感じ。ここまでくるともはや、雑誌が所詮、広告であることを指摘する気すらなくなりますね。非常にわかりやすくて良いではないかと思う反面、agehaのような雑誌にとっては生き難い状況が続いていたと想像します



ただ、宝島社が満を持して創刊した「40代女子」向け雑誌『GROW』は、他の付録つき雑誌とは少し違って一応中身があるように思います。雑誌をお手本にライフスタイルを組み立ててきたバブル世代は、付録だけでは取り込めないですからね。



SWEETと小悪魔ageha


対照的な2つの雑誌が、今後どうなってゆくのか少し楽しみなかやなのでした。

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*1:ニュートラハマトラなど

*2:『私に萌える女たち』講談社、2010.

痴漢は身体の万引きか

こんばんは、寒くなりましたね。みなさま秋の夜長をいかがお過ごしでしょうか。今日は久しぶりの更新です。突然ですが先日、真夜中に新宿某所のドン◯ホーテで痴漢に遭いまして。もちろん今でも思い出すとゲェ…とか思うわけですが、そこは転んでもタダでは起きないかやです。今回は、その時に感じたことを掘り下げてえぐってみることにしました。


痴漢に遭ったのは本当にすれ違いざまの一瞬で、声を上げる間もなく加害者(黒いジャンパーみたいなのを着た自分より身長が低い中年男性ですが)は逃げてしまい捕まえられませんでした。


最初は何が起きたのか分からなかったのですが、ハっと我に返った瞬間に思ったのは「声をあげなきゃ」ってことで、できる限り勇気を出して「触らないで下さいよ!!」って言ったのですね。でも犯人は振り向きもせず逃げてしまい…追いかけようかと思ったが、足がすくんで動かない。


で、そんな自分に「加害者に敬語使ってどうするねん!」等とツッコミを入れながらも、自分から楽しい休日を奪った犯人を憎む気持ちがふつふつと湧いて来ました。


2分ほど経ち少し冷静になって思ったのは、「痴漢に遭うのは若い女の代償なのか。そんな特権いらないから早く、欲望されない中年になりたい…」ということです。そして同時に「自分は男が横にいないと身体ひとつ守れない脆弱な存在なのか」とも思いました。


たとえばセクハラ的な視線を浴びせる男社会に対抗して、あえてミニスカートを履き女として 「見せる主体」になろうとしても、横に男がいないと結局、隙間から滑りこむ性暴力を交わすことさえできない。男の視線を逆手に取って「見せる主体」たろうとする行動が、実は男の保護下でしか機能しないというジレンマにぶち当たったわけです。そんなこと理論的には分かっていたものの、実際に体感してみると割とやるせない。


そこで家に帰ってから痴漢というものについて考えてみたのですが、かやは痴漢加害者の気持ちって全く分からないのです。彼らは万引きでもするような感覚なのでしょうか…お金を払えば性的サービスは手に入るが、タダでは絶対に触らせてくれない身体をタダで陵辱する、おまけにスリルもあるという動機だとしたら、浅ましいと思う


「万引きは犯罪です」も「痴漢は犯罪です」もよく見るコピーだけど、どちらもお金を払わずに 商品を手に入れようという根性だとすれば、ずるいしタチが悪いと思うわけです。万引きする者は品物の対価を払っていないし、痴漢加害者は性的サービスの対価を払っていない。いや、万引きと痴漢を一緒にするな、女の身体は売り物じゃない…と言いたいところですが、この社会ではそうはいかない。


というのも小学生の頃から「援交する女子高生たち」をメディアでさんざん見てきた自分は、この社会で(男女年齢関係なく)性的な存在は商品たることを避けられないと思っているからです。寂しいけど、女の性がカジュアルに商品になることは当たり前だと思うんだよね。だからあえてこういう言い方をするが、痴漢加害者はタダで性的満足を得ているから許せない。


もちろん、痴漢に対する不快感の大部分は自分の身体が何者かに侵犯を受けることの恐怖であったわけです。だけど、自分の中にはほんの一部「タダで触らせてしまった!悔しい」って感情もあったんだよね。性的価値の高い(とされている) 身体に触れたいならそれなりの対価を払って下さいよという。


対価を払ったからといって相手(この場合は若い女)がそれを提供してくれるとは限らないが、だったらそういうサービスを提供してくれる性風俗店なりに行けばよい。とにかくタダで性的快楽を得ようとするそのズルい感情が自分 の身体に向けられたことへの、嫌悪感があったのです。



だからタダで痴漢するオヤジとキャバクラに行ってセクハラするオヤジとでは、後者のほうがほんの少しだけマシだと思う。対価としては少ないにしろ、一応はサービスに対しておカネを払っているからね。


もちろんセクハラ加害者を擁護するつもりは毛頭ないけれど、 自分の痴漢に対する不快感のうち数%は、彼らがタダで快楽を得ようとする点にあるのです。そんなセコい感情のために、私の、そして多くの若い女性の身体を犯さないで下さい。性的快楽を得たいならそれ相応の対価を払ってもらわなくては。だって誰も、深夜の店内をうろうろして痴漢できそうな女性を探し回 るあなたみたいな存在に身体を売りたいとは思わないのですし、という怒りですね。



「痴漢は性的サービスをタダで手に入れようとするから浅ましい」。こういう考え方はきっと性の商品化に反対する向きからすれば反動的と映るかもしれない。だがこの資本主義社会で「性」が商品になることが避けられないなら、徹底的に高く売るべき、もしくはここが重要なんだけど、「売りたくない性は守られるべき」だと私は思う*1


いや、高くなり過ぎた価値はいつか暴落するんですけれどね。そのタイミングを自分でコントロールできないのが辛いですね。いっそ「モテ」や女らしさなど放棄して、ナンシー関のように我が道を行くか。だがそこまでの勇気もなく、今日もかやは男目線の盛り顔づくりに余念がないのでした。はよ寝よ。

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*1:逆 に誰もが売りたくないと願うから、「性」の価値が高まっているともいえるけれど.

ミスコンはヌードでやればいいのにね(パート2)〜差別と差異〜

こんにちわー。


前回のブログには沢山の反響をいただきました。「ライトフェミはすぐ男に媚びる」とか「人種差別にも同じことを言うのか」とか、「あの子は小悪魔agehaを読んでいるアレな人だから」 、「差別と差異を一緒にするな」などなど


文章の解釈は読んで下さった方の自由なんですが、その反応から、どうにも言いたいことが伝わってないなーって感じでちょっと悔しいので、炎上覚悟で前回の補足をしたいと思います。ではではいきますよー。



差異のない世界はありません。AさんとBさんがいた場合、AさんとBさんは違う人なので、2人の間には差異があるといえます。AさんとBさんが仲良くしているうちは「私たちは同じ仲間だよね」と言い合っている。だけどもし彼らが喧嘩をした場合、AさんはいきなりBさんを「あなたは私とは違う、下等な存在だ」と主張し始めるかもしれない。こんなふうに私たちが固有の存在である以上、そこには無数の差異が存在していますよね。これが差別を生みます。もちろん意図的に、その差異をないものとして団結することもできる。だからこそ差別を撤廃させようとする運動が成立するわけです



ミスコンが女性差別であるとすれば、「女性に固有の性的評価を押し付けているから」、つまり女だけを一方的に美で評価しているからだよね。女に「性差による効果=女らしさ」を押し付けるのがミスコン。だからミスコンはやめるべきだという主張は分かりやすい。



ただ、ミスコン一般をこの方法で批判することは難しいと思うのです。なぜならこの批判は、女に対して美(でも「女らしさ」でもいいけど、とにかく女という性に固有の効果、つまりは「性差による何らかの効果」)を押し付けるイベントを全てなくそうとすることに、つながってしまうから。



屁理屈かもしれないけど、かやがよくあるミスコン批判(=女性を差別するからダメ)に違和感をおぼえるのは、「性差による効果」が全く意味をなさない社会を想像できないからです


「性差による効果」が全く意味をなさない社会って究極的には、性差が存在しない社会なんだよね。もちろん「ミスコン批判者が性差のない社会を目指そうとしている」と言っているわけではありません。誰もそんなことまで考えてないと思う…


でも、そこまで考えていないというのが最大の問題ではないでしょうか


性差による効果をどこまで認めるのか」を深く考えていないからこそ、「ミスコンが駄目ならシューカツで美人が得なのは差別だからシューカツもなくせばいいのか」とか、「オスコンをすれば男女平等じゃないの?」とか、果ては「女性差別ばかり主張して男性差別は放っておくのか!」などなど、「ミスコン批判に違和感を覚える人たち」から、言い掛かりにも似た突っ込みをされてしまうのではないでしょうか。



要するに、ミスコン批判者たちの最終的な「平等」イメージが明確になっていないところが、ミスコン批判者たちが「ミスコン批判に違和感を覚える人たち」から突っ込まれる要因だと思うのです*1



これは別にフェミニズムのせいではなくて、フェミニズムの依拠する「近代」の平等概念に原因があります。近代社会が平等という建前のもと、差別を生み出す「差異」を前提としたシステムをつくってきたからです(これは前の記事で詳しく書きました「ミスコンはヌードでやればいいのね」*2


とはいえ、かやは「人間同士には何らかの差異がある以上、完璧な平等など不可能なのだ。だから差別は仕方ない!」なんて主張するつもりはありません。完っ璧な平等はそれこそ「差異」をなくせば、もしくは見い出さないようにすれば理念的には可能ですが、そんなの現実的じゃないもの。


平等というのは、決して到達することのできない未達の地みたいなものだと思う。ほぼ間違いなく完璧な状態としての平等には到達しないけれど、いつかたどり着きたいと目指している運動まで否定する必要はないよね。


というより、私たち社会のメンバーに「平等という建前」が共有されているからこそ、フェミニズムに限らず平等を実現させるための運動が成立し、ある程度の効果を上げてきたわけだよね。その成果や、いつか実現できるかもしれない「平等」(もちろん完璧なそれは不可能だとしても)まで、否定することはないと思うのです。…と最後は大きな話になっちゃいましたが、かやが最近考えていたのはこういうことです。


さてさて、かやも性差に固有の効果である女らしい外見を目指してダイエットしないと。なぜならもうすぐ、恐怖の健康診断なのです…(><)

コメントはTwitterアカウント@kaya8823に頂けると幸いです。

*1:だからこそミスコン批判をするなら、あいまいな平等概念を使うのではなく、ハッキリとした根拠や嫌悪感を示すべきだと思うんだよね。たとえばあくまで一例だけど、ミスコンがヌードで開催されたらと考えてみる。その様子を想像することに直感的な心理的圧力があるとすれば、それは性を売り物にすることへの本質的な拒絶感かもしれないよね、とか。そういう意味で、この前のブログでは「ミスコンはヌードでやればいいのにね」って書いたのです.ヌードでやればミスコンの浅ましさが露呈するでしょ.

*2:詳しくは吉澤夏子著『フェミニズムの困難』に詳しいので、「差異がないのが平等?ハァ?何言ってるの?」と思う方はぜひ読んでみてください。近代的なフェミニズムがなぜ、男女の扱いの差異を最終的には消滅させようとする(ように見えてしまう)「平等派」のマルクス主義フェミニズムと、女性の固有性を本質化する「差異派」(ラディカルフェミニズム)とに引き裂かれるのかを理論的に説いた本です.