ミスコンはヌードでやればいいのね

みなさまこんにちは。学園祭の季節ですね。少しでもフェミニズムをかじり、そしてこじらせた女としてこの時期ちょっと気になるのはそうミスコンです。


ご存じの方も多いと思いますが、ツイッター上では最近ミスコンをめぐる議論が大いに盛り上がっています。


中でも“ICUのミスコン問題”をきっかけとして、「反対派の怒れるフェミニスト「賛成派の男性知識人」とが激論を交わす例が目立ちます。


前者が必ず女とは限らないのですが、この構図はどうも80年代からずっと変わっていないようで。


学祭のたびに「ミ、ミスコンなんか全然興味ないんだからねっ!」派を決め込んでいたかやですが、いち女(若干こじらせてるけど)として言いたいことはありますよほんとうは。


というのも、女性差別の観点からミスコンを批判するのには限界があるからです


「ミスコンは男を見る側、女を見られる側として固定する女性差別である」→「ゆえに廃止すべき」というのは分かる。


この立場が前提としているのは「平等」です。女は本来平等であるはずなのに、男性が考える「美」を基準として分断されている。ミスコンのイヤな感じというのは、男の好みで女が評価され、それがさも社会全体における女の評価につながっているかのようなもやもやですね。いや実際そういう部分は多いにあって、かやも気に食わないんだけど。


ただ「美」という基準で女を判断するミスコンを批判すると、美による選抜はすべてNGなのかということになってしまう。美とは結局「見た目」ってことだから、見た目による選別は全て批判しなくちゃいけなくなるよね


でも「見た目によって差別されない社会」って結局、「全員の見た目に差がない社会」なんだよね


皆が同じ顔や体型をしていれば、差別はなくなる。
差別とは何らかの「差」があるところに生まれる否定的な意味づけだから、「差」がなければ差別も生まれないのです


そのような社会では、運動会も入学試験も就職試験も必要なくなるよね。なぜなら皆同じ体格や思考、成績で差がつかないからです。あ、成績って概念すらないかも。偏差値もありえないよね、みんな同じ点数なんだから。


というか究極、差異がない社会では男女差もない。性差によって見た目に差が出てしまうからこそ差別が生まれるんだから。


つまりミスコンを批判したい私たちが前提としている「平等な社会」というのは、突き詰めれば一切の差異がない、つまり男女差もない社会なのです……。


ミスコン反対派に感じる違和感はここにあって、反対派にとっての「平等」とは何なのかが、明確ではないってことなのです


ミスコンに反対するということは究極、差別=差異のない社会を理想とすることになり、それは男女差も否定することとなり、となればもともと批判したい「女性差別」もありえないということに…堂々巡りです。



言い換えれば「美という観点で女を選別し、序列化するからミスコンは差別だ」と主張すると、「選別の結果の差別」という意味ではミスコンに限らず全てのコンテストや競争を、同列に考えなくてはならなくなります。差があるところに生まれる結果は全て差別につながる可能性を秘めているからです。ペーパーテストしかり、徒競走しかり。近代的な概念であるスポーツが「機能的な身体」を称揚した裏側で、障がい者を排除したのはよく知られてますね・・・



だからといって、フェミニストが悪い!フェミニスト女性差別だけを特権視して男性を抑圧している!なんて批判はお門違い。



なぜならここでフェミニスト」たちが前提としている平等とは、現代社会に生きる私たちみんなが内面化している大前提でもあるからです


学力テストだって、全員のスタートラインが平等だというタテマエがなければ成立しないよね。あと徒競走で(だいたい)おんなじ年齢同士で競わせるのも、その年齢の子たちは平等なんだから同じ条件で競わせるべき、という「平等のタテマエ」があるからだよね。繰り返しになりますが、平等とはつきつめれば差異がないってことだから、差異がないなら競争する意味もなくなってしまう。それこそ差がつかないからです。



「平等」を前提とする限り、私たちは一切の差異がない世界を暗黙のうちに理想としている。平等な社会=究極的には差異のない世界をタテマエとしながら、差異=差別に依拠したシステムを生きる…。



フェミニスト」のミスコン批判を批判する人たちは、自分たちもこのようなタテマエを暗黙のうちに共有していることに気づいているのかな。


ところで最後にかやの意見をちょこっと述べると、ミスコンでは裸でステージに上がって審査すればいいと思う。どうせ性的魅力を競うんだから、そのほうが分かりやすいんじゃないかな。料理の腕とかウエディングドレスとか、大学でのミスコンには関係ないよね。裸だけでの審査が嫌なら、大学らしく成績の評価くらい加えてもいいけど


見た目の差異によって女を序列化するのが全て悪だとは言わないから、どうせやるならどうぞ、ごまかさずに徹底してやってくださいねくらいのことは思います


……ほ、ほんと〜〜〜〜〜に、ミスコンなんて全然興味ないんだからねっ!!!!


コメントはTwitterアカウント@kaya8823に頂けると幸いです。




【おすすめ参考文献】
・『フェミニズムの困難』吉澤夏子
・『男女論』山崎浩一
・『フェミニズム・コレクションⅡ――性・身体・母性』加藤秀一ほか編
・『お笑いジェンダー論』瀬地山 角

生まれ変わるなら 男?女?

みなさんこんにちは。日曜の夜いかがお過ごしでしょうか。

かやは今、東京某所のサイゼ◯ヤでミラノ風ドリアを食べつつこのブログを書いています。
予算の都合上、半熟卵はのせていません。
老若男女で溢れる店内でぼんやりと、ある統計調査の事を思い出しました。

「生まれ変わったら男になりたいですか? それとも女になりたいですか?」

かやはず〜っと、生まれ変わったら男になりたいと思ってました。15歳の頃からお仕着せの女らしさに疑問をもっていた身としては、とにかく女以外のものになれば生きやすかろう、くらいのことをぼんやりと考えていたのです。ま、中2病みたいなものですわ(笑)


でもどうやら、そんな自分は少数派のようです。


統計数理研究所の調査*1によると、「生まれ変わるとしたら男がいいか女がいいか」という問いに対し、「また女がいい」と答える女性の数は戦後一貫して増え続けているのです。


調査を開始した1958年には、6割以上の女が「生まれ変わったら男になりたい」と答えています

58年といえば「売春防止法」により、公娼制度のなごりである赤線が廃止された年。皇太子と美智子さまが結婚し、東京タワーが完成した。世の中は明るかったが、まだまだ女が生きやすい時代ではなかったのですね

ところが10年後の68年にはその割合が逆転し「また女になりたい」が「男になりたい」を上回るようになる。73年には「また女」派が「男」派を10ポイントも上回っています。時代は高度成長のまっただ中、恋愛結婚の数がお見合い結婚を上回り、都市では団塊世代が新しい核家族を形成していきました。


80年代になると「また女がいい」が6割を占めるようになり、93年には「女がいい」が「男がいい」の2倍近くに。今では「女がいい」が7割で、「男がいい」は2割に過ぎません。


なんというか、消費社会化と自由恋愛化が進んだ70年代以降、女は自分を肯定できるようになったのかも


70年代は、団塊世代が「夫婦の対等な恋愛関係」(友達夫婦!)と「耐久消費財の消費」(カラーテレビ、クーラー、自家用車…)を中心とした「新しい核家族」を形成した時期と重なる。恋愛と消費が女を主役にしたのだ。


見合い結婚が主流だった60年代前半までは親の意向で決められていた結婚相手を、自分の好みで自由に選べるようになった。恋愛市場で決定権を握った(若い)女の価値は高まり、女は「女」であることを肯定できるようになった。そうなると未婚の女は自分に投資し始め、結婚した女は自分の延長上にある家族に投資するようになる消費の主役は女になった


一方、消費の主役の座を追われた男の人たちは何をしていたかと言うと……戦後一貫して9割が「生まれ変わったら男になりたい」と答え、企業戦士として24時間戦っていたのでした

さて、消費の主役になるべく半熟卵を追加し、今日も企業戦士(もどき)として働くかやなのでした。

コメントはTwitterアカウント@kaya8823に頂けると幸いです。

*1:「日本人の国民性調査」

ふたりエッチとフリーター

こんにちは。世間では3連休ですねkayaもだけど。みなさまいかがお過ごしでしょうか。自分は相変わらず目立った予定もないので、週末引きこもりをやっております。


いきなりですが、先日のブログで90年代後半、中学生男子に回し読みされていた漫画「ふたりエッチ」について触れたのを覚えておられるでしょうか。ものすごい小ネタだったので私自身も忘れていたのですが、今回はそこから派生して若者論をぶちたいと思います。


「ふたりエッチ」の何巻かは忘れたけど、20代フリーターがとある女の子に「俺、フリーターやってるぜ」とか何とか自己紹介をし「カッコいい!エッチしたい!」(だったか忘れた)と思われ、ゆきずりのセックスをする場面がある。90年代後半の話です。


その頃はまだフリーターが「カッコいい」存在だったのか


ゼロ年代の進路指導ではよく「フリーターと正社員の生涯収入の差はウン億円」の図が使われた。で「フリーターだけは選ぶな」との教育を受けてきたkayaは驚いたわけです。


日本でフリーターをめぐる議論が活発になったのはここ10年ほどのこと、2000年代になってからだ


フリーターの数は97年に内閣府のデータで300万人を超えていたし、若者に限らず経済格差はいつの時代も存在していた。ただ日本では未婚の子供が実家で暮らすことが一般的なので、親の資産があるかぎり若者は低収入でもそこそこ楽しい生活ができる。「パラサイトシングル」ってやつですね懐かしい


ところが99年に派遣法が改正され、派遣可能な業種が一気に増える。2000年頃からは就職氷河期がはじまり、大学を出ても就職できない若者が急増した。「一時的な自由」を享受していたフリーターたちがオトナになるにつれ、彼らは結婚できるのか?子供はどうなるのか?というか税収はどうなる(実はこれがメイン)などの問題が騒がれるようになった。


ただ重要なのは、派遣法自体は1986年にすでにスタートしていたということだ。86年といえば男女雇用機会均等法と同じ年。あのとき以来、私たちの社会は少しずつ変わっていった。


「能力のある者は雇用を保証する代わりに使い倒すが、そうでない者は低賃金に甘んじて自由に働いて下さい」*1


快適な現代社会を支えるには、大量の低賃金サービス労働者が必要となる。それに甘んじたのが若者だった。マクドナルドで、コンビニで、24時間営業のスーパーで働くバイトに高度な能力はいらない。低賃金でニコニコ、文句を言わずに働いてくれればよいのです。スマイル0円とは「微笑む」という労働の価値が「0円」ということだもの。


このような社会は、ゼロ年代以降の私たちがうすーく内面化している自己責任論と相性がよい。「選んだ地位はあなたの努力の結果なので、社会に文句は言わないで下さい」というわけです。



経済をうまく回すため「周辺」の安価な労働力を利用する。そうしてこの国は成長してきたんだよね。



ところで戦後長らくその周辺を担ってきたのは女性だった。70年代以降の日本が高度消費社会化するにつれ、大量に必要となった低賃金サービス労働を最初に担ったのは主婦パートだったのだ*2日本では安価なサービス労働を担う主婦がいたから、移民が必要なかったんだね。そこに80年代以降、若者と「企業に滅私奉公することを希望しない女性」が加わっただけ、とも言える


それまでは主婦パートがやっていた単純労働を若者もやるようになったから、日本のサービス業はこんなに上手く回っている。若者と多くの女性たちは「あなたの選んだ地位は全てあなたの責任で引き受けてね、社会のせいにしないでね」という自己責任論のもと、周辺に甘んじ続ける。


こんなふうに中心の利益を守るため、周辺から安価な労働力を搾取し、そのツケを未来に回すような社会のどこが「最小不幸社会」なのかと思う


さて……そうだ、3連休はジャスコに行こう。

コメントはTwitterアカウント@kaya8823に頂けると幸いです。



【ついでに】
今回の議論はウォーラーステイン世界システム論とフランクの従属理論、あとマリア=ミースらの「主婦化」理論を参考にしています。読むとやっぱマルクスすげぇ!って思えます。興味のある方はぜひ読んでみてください^^

*1:私たちの生きる高度消費社会では、高度な情報サービスを生み出すため昼夜を問わず働く高給労働者と、彼らの生活を支えるのに必要な単純サービス労働(マックジョブ)を提供する低賃金の労働者が、大量に必要となる。リチャード=フロリダはそれを、クリエイティブ職と大量のサービス労働者という図で説明したよね。同時に彼はサービス労働の付加価値を増やし賃金を上げるべきだとも言っているけど

*2:主婦パートを安く使えたのは、高度成長期に一般化した「サラリーマンと主婦、子供」という家族形態のためです。企業は男性を目いっぱい働かせるため、裏で主婦の無償サービス労働を当てにすることができたのだ、巧妙な仕組みだよね

愛あるセックスと「自由」 (2)

こんにちは。いつのまにやら10月ですね。この季節、バーバリーのチェックのミニを履きたくなりますね持ってないけど。

先日の記事では北原みのり氏の著作を参照しつつ、かつてのアンアンが高らかに唱えたような「セックスにおける自由」が今も可能かどうか考えました。今回はセックスうんぬんから派生する「承認問題」について掘り下げてみます。


90年代後半以降、「普通の女の子」のセックスが簡単に売られる社会となった結果、逆に「愛あるセックス」が規範化した。というよりケータイに象徴される「誰にも見られずに誰かとつながる」ツールが一般化した結果、人間関係が流動化した。

つまり恋愛もセックスも簡単にできるようになった。


実際、90年代に10代の性交経験率はどんどん伸びている*1


セックスしたければ出会い系に登録すればいいし、お金が欲しければソフトに売春したっていい。


セックスするのに「結婚を前提とした付き合い」や「○年も愛し合っている」といった必要条件がなくなり、
したかったらいつでもできるようになった
*2


だがセックスは簡単にできるが「ほんとうの愛」は簡単に手に入らないと気づく子たちが出てきた。
そういう子たちから、どんどんセックスに対する期待値が下がっていった*3。反対に愛されることへの期待値というかプレッシャーだけが肥大化していく*4


結果的に「愛されなかった」女の子たちは自分を責めるようになった


それはセックスを含めた人間関係が、タテマエとしては全て "自分で" 選べるようになったからだ。
選べるようにはなったけど、選んだ結果に対して誰も「それでいいんだよ」とは言ってくれない
あなたが選んだんだからあなたの責任というわけです。自己責任という言葉も流行った。


こんなに愛されたいのに愛されないのは私のせいだ。でも愛されたい。愛されているなら殴られてもいい。


2006年に創刊された小悪魔agehaでは、読者モデルの「愛され自慢」よりも、DV彼氏との閉鎖的な日常や人間不信などの「病み告白」を特集したほうが部数が伸びるという。


たとえば08年の「病んだっていいじゃん」特集では、age嬢たちのキラキラした写真とともにこんなコピーが踊る。


「週の半分以上蹴られてた。それが普通だったから」「居場所がなかった」「愛して欲しかった」


傷つけられることで繋がる関係は辛いが、その代わり強烈な「承認」が手に入るageha編集部はそうやって手に入れる関係を、「殴って殴って抱きしめる」と表現したりします。自分が傷つけられていることが、愛されている証になるんだよね。


誰もが愛されたいともがく社会のなかで、居場所をなくした女の子たちが小悪魔agehaに救いを求めた。それでも承認を得られない女の子たちは「愛されないのは私が悪い」と自分を傷つけ続けた


無数のリストカットの痕、レイプやDV被害の告白……


24歳で自殺した上原美優の過去は自傷に満ちている。そんな風に死んでいった1人の女の子の生と性を、メディアは悲劇の物語として消費する。また女の子の現実が分かりやすく薄められた。


そういえばここ1年ほど、小悪魔agehaの病み特集をあまり見かけない。現在進行形で病みの内容を告白する特集が減り「病んでいた過去を語る」型の特集が増えている。


「病んだっていいじゃん」から、色々あったけど「この恋があったから今の私がいる」へ。変わりつつある小悪魔agehaが、変わらない女の子たちのリアルをとりこぼさないかちょっと気になるkayaでした。

*1:もちろんこれは数字だけの問題で、ヤりまくる子とそうでない子とに二極化したと解釈することもできるけど

*2:何度も言うけどだからこそ、いつでもセックスできるのにできない「非モテ」へのバッシングも出てくるわけですが。不毛だよね

*3:だからこそ若者は「草食化」したんだと思う

*4:愛されたいとはすなわち「承認されたい」ということだけど、90年代以降、この「承認」を求める動きが特に目に付くようになったと思う

愛あるセックスと「自由」

こんにちは。Kayaです。

最近、北原みのり氏が書いた『アンアンのセックスできれいになれた?』を読みました。
1970年に日本初の女性ファッション誌(と言ってもいいよね)として生まれたan・anの40年間を、セックス特集で振り返るという内容。面白かったよ。an・anのセックス特集には時代の空気が反映されている。


中でも特に興味深かったのは、97年あたりからそれまで「私のためのセックス」「開放的で自由なセックス」を高らかに主張していたan・anが、「愛あるセックス」ばかりを礼賛するようになったこと。

ちょっと引用してみます。

「(最高のセックスは)愛情と信頼と、すべてをゆべてをゆだねられる一番好きな恋人」「最高のセックスは、愛される幸福感をもたらす」「最高の快感を得られるのは、一番好きな人とのセックス」(97.6.20)


北原氏によればan・anが「愛あるセックス」を唱え始めた背景には、当時の援交ブームや東電OL殺人事件といった「セックスが売り物になる社会風潮」があるという。性行為に簡単に値段がつく社会では、売り物になり得ない(と思われている)「愛」の価値がインフレを起こすのだ。


そうして「愛ある素晴らしいセックス」が規範になると、自分のセックスを思い返して「ああ、愛のないセックスをしてしまった」と落ち込んで自分を責める女の子が大量に生まれるだろう


an・anの唱える「愛あるセックス」はそれができなかった場合、相手ではなく女の子が自分自身を責める仕組みになっているからだ


「好きでもない相手とヤってしまうあなたは、心に問題があるのでは?*1」。


こう言われると女の子は黙って自分の心を覗き込むしかなくなる。


そういえば、90年代末に思春期だった自分も「愛がないセックスはしてはいけない」の呪縛の中で育ってきたと思う。


たとえばkayaが受けてきた性教育は出産のビデオを見て感想を書いたり、「中絶はあなたの心も体も傷つけます」式の「脅し」か「エイズ差別はダメ」とか、それくらいだった。思春期の自分にとって中絶は、愛のないセックスをした罰ですらあった。彼氏とのプリクラには「愛羅武勇」(あいらぶゆう)って書くのが流行りましたね彼氏いなかったけど。


「普通の女の子」の性が簡単に商品となる中で、愛あるセックスの規範が強固になっていく。だがどうすれば愛あるセックスができるのかは誰も教えてくれない。だから相手の「愛」がまがい物かもしれないと疑った瞬間に、その経験は「悪」になってしまう。(まあこれはkayaがチキンだったと言えばそれまでなんだけど)息苦しい時代だったと思う。


さて、90年代末のananを読むにはまだ幼かった自分にとって、セックス教本といえば告白雑誌の「パステティーン」か「エルティーン」あとはたまに女友達と立ち読みする青年誌くらいだった。


パステティーン」には主人公がレイプされて傷つく漫画がよく載っていた記憶がある。それこそ3ヶ月に1度は援交レイプネタが掲載されていました。ちょっと年上のお姉さんたちはと援交して傷ついたりするんだなって漠然と思ったのを覚えている。仲間内では飯島愛の『プラトニック・セックス』が流行った。DVという言葉を知った。華原朋美オーバードースをし、浜崎あゆみは「居場所がない」と歌っていた。誰もが「私を承認してよ」と叫ぶような、そんな90年代〜00年代でした。
*2



そんな時代に青春を過ごしたせいか、自分にはan・anが主張した「セックスにおける自由」というものが正直、想像できないのです。an・anの明るいセックスよりも『小悪魔ageha』に出てくる彼氏との息苦しい関係性の方にリアルを感じてしまう。彼女たちの過剰なまでの病み告白は、過剰なだけに逆にリアルなのです。



漠然と「愛」を求めつつ「愛が得られなかった」と自分を責める女の子たちが救いを求めたのが、06年に生まれた『小悪魔ageha』だったのだろうagehaでは読者モデルの愛され自慢より、DV告白を特集した方が部数が伸びるという。


80年代のan・anにおける自由で開放的なセックス=「私たちのためのセックス」は今も可能だろうか。

*1:この時代、トラウマ語りや精神病がアイデンティティとなる「心理学化」と呼ばれた流れもありましたね

*2:関係ないけど、中学生の女子がそういう形で性愛の如何を学んでいた頃、同級生の男子は家庭内での幸せな性生活を描く『ふたりエッチ』を回し読みしておりましたね

女性専用車両と男性差別

こんにちは。kaya@夏休みでした。田舎(地元ね)ではひぐらしが鳴いてたよ。今日はそんなkayaが数日間だけ、東京の通勤ラッシュから離れて思ったことを書きます。



いきなりですが、あなたは女性専用車両について賛成or反対?」って聞かれたらどう答えますか。



かやはずっと、女性専用車両というものについてどう考えればよいのか分かりませんでした。なぜなら実際に自分が多くの女の人と同様、女性専用車両から多大な恩恵を受けているからです。あの中はすごく快適。そういう自分の立場を勘定に入れた上で女性専用車両を検討してみる。



まず、痴漢に遭いたくない女性が女性専用車両をシェルター目的で利用することは合理的である。だって誰だって知らない男性から身体触られたりしたくないしね。性犯罪にあった瞬間のあの自分の身体なのに自分の身体ではないような恐怖は異常だし、トラウマになる場合もある。



誰が悪いかといえば加害者の男性であり、その矛先が男性一般に向けられるのは仕方ないと思う
。悪いことをする可能性のある集団は、あらかじめ閉め出すのが早いだろう。



でもそういうふうに主張すると、「なぜ女性ばかりが守られるのか。痴漢冤罪に遭いたくない男性専用車両がないのはおかしい」と言う意見に反論できない気がする。なぜなら痴漢によって女性が受ける被害と、痴漢冤罪によって男性が受ける被害のどちらが甚大かは誰も判断できないからです。



確かに数の上では膨大な痴漢(言い出せなかった被害含め)に対して痴漢冤罪の被害は小さく思える。*1だけどたとえば10人死者が出た事故と50人死者が出た事故を比べて、前者の被害人数の方が少ないから前者の遺族には何の保障もしなくてよい、あるいは今後の措置を1つもとらなくてもよい、とはならないよね



女性専用車両とは結局、ある集団の利害(痴漢には遭いたくない)を優先させるために仕方なくとられた措置なのだと思う。



この措置はあくまで消極的解決なのです。本当なら痴漢なんてなくなればいい。だけどいつまでたっても状況が変わらないので、仕方なく女性を集めて保護している。



しかしこの解決方法がどうにも積極的で「男性を排除している」ように見えるところが、男性たちの不満につながる。じっさい冤罪被害と痴漢被害のどちらが甚大かについては誰も判断ができない。



こう考えてみて気付いたのだが、
「性差による犯罪がすべての犯罪に優先して解決されるべき」とは(いいたいけど)いえない
ということだ。平等を優先すると全ての「被害」を相対的に捉えなくてはならなくなるのです。



だから個人的には一女として女性専用車両は快適だし痴漢に遭う心配もないから嬉しいけれど、どこかで申し訳なさや罪悪感のようなもやもやを覚えるわけです。誰に対する罪悪感かと言われると多分「何らかの被害に遭う可能性のある全ての弱者」なのだと思うんだよね


通勤電車でずーっとそんなこと考えてるからよく乗り過ごすのかな、kayaは。。。

*1:あと私が女だからか性犯罪はやっぱり何よりも許しがたい気がする。でも性犯罪が卑劣であればあるほどそれにまつわる無実の罪を着せられた男性も辛いと思う。

結婚したら勝ち組。

みなさん、こんにちはー。相変わらず蒸しますね。いかがお過ごしでしょうか。

江ノ島で、リア充が吹かせる湘南の風に吹かれたけど美味しいパスタは作ってないkayaです。


いきなりだけど最近、通勤途中に『くすぶれ!モテない系能町みね子著)というエッセイを読みました。


モテない系というのは、モテ系にはなれないし、なりたくない!っていう自意識過剰さと、全く男から相手にされない「圏外ちゃん」にはなりたくないしそこまで自分は落ちていない、っていうプライドとの狭間で揺れ動く日本のうるわしき女子たちのことです。あなたの周りにもいるよね?というか、自分がまさに「モテない系」かもしれないと思うkayaですが。


彼女たちは一応、彼氏もいるし、結婚したりもしている。だけどどこかで、ゆるふわ系ファッションと天然キャラで男に媚びるモテ系と自分は違う と思っている。モテ系の彼女たちをうらやましいと思いつつも、モテない系はどこかで、自分の中の「女」と距離を取ってしまうのです


ただし、モテない系は「仕事第一のバリキャリ」でもないので、いっとき話題になった「負け犬」にもなりきれない*1この中途半端さがモテない系なのです。


著者の能町みね子氏は、負け犬はキャリアがあるので結婚しなくても収入面には不安がないが、モテない系は特にバリバリ仕事をするわけでもない、ゆえにたいして収入も多くないので 「とりあえず結婚はしとけ」という。


あー日本には「バリキャリ負け犬」の背後に、多くの「モテない系」が控えているんだろうなと思う。 だいたい酒井順子氏の『負け犬の遠吠え』は都会に生きるキャリア女性たちが、お金のかかる趣味(歌舞伎やら着物やらワインやら)を楽しむ様を軽妙なタッチで描いたエッセイだった。そんなの東京にしかいないじゃん。


じゃあどうして『負け犬〜』があれだけ売れたかというと、日本では「結婚しないこと」への不安や背徳感がまだまだ根強いせいだと思う。『負け犬』は「結婚していない不安」という1点に焦点を絞ったおかげで、あれだけヒットしたのだ。


私はヘテロの女だから特にそう思うのかもしれないが、結婚している、つまり私は誰かに選ばれていること安心感は相当なものだと思う。結婚さえすれば「マジョリティの側にいる安心感」が得られるからだ。なんなら結婚していない人たちを見下すことだってできそうで恐い。『負け犬〜』をことさら熱心に読んだのは、もしかして結婚している女たちかもしれない。



社会学者の宮台真司氏は「独身者は、子育てによって地域コミュニティに参入する "絆コスト" を払っていない」という。彼の言葉はきっと、既婚者たちの心に心地良く響くことだろう。


いや別に、私は既婚者をdisっているわけではありません。エッラそうなことを言ってるkayaでさえ「や、いつか結婚はしたいぞ」などと思っているわけです。特に女性にとって、結婚して誰かの夫になることは「社会とつながる居場所」を得ることと直結する。「〜さんの妻」「〜さんのお母さん」という呼ばれ方は、誰かに自分が帰属する強烈な安心感を与えてくれる。


だから人はなかなか離婚しないのである。


DVで結ばれたカップルがなぜ別れにくいと言われるのか、納得できた気がする。臨床心理士信田さよ子氏が言うように、DV夫の妻は「妻の座から転げ落ちること」が怖いのかもしれない。「経済的基盤を失うことが恐い」という理由も確かに間違ってはいない。ただそれだと、仕事をもつ女性がDV夫となかなか離婚しないケースの説明がつかないように思う。


彼女たちは、一度でも誰かに選ばれたその地位を手放すことが恐ろしいのかもしれない。なぜならこの国では、結婚していない女(最近では男もか)に浴びせられる視線がとても冷たいから。


「自分はその冷たい視線を浴びたくない」という不安が「寂しさ」を駆り立て、女を婚活に向かわせると言えばあまりにドライな気もする。というわけで「モテない系」の私はそんな風に思ったりしながら、慣れない湘南の風を浴びて湘南の風邪をひいたりしています。

*1:負け犬とは、仕事一筋に生きてきた結果、その完璧主義さゆえに男を遠ざけてしまった独身30代のことです。