「女性を活用すると企業の業績が良くなる」は本当か

こんにちは。みなさま、夏バテしてませんか。kayaはこの時期、ヨーグルトばっかり食べてるんだけどそんなことはどうでもよくて、今回は「企業の女性比率と業績」のお話です。


先日、ツイッター上で、

「男ばかりがガツガツ働かなきゃいけなくて、女はパートか派遣になるしかない、っていう会社は割と多いと思うんだけど、そうじゃない会社の業績がバリバリ伸びてる、とかいうデータあったら下さい」と発言したら、お二方からとある報告書の存在を教えていただいた。


「女性の活躍と企業業績」 http://p.tl/_zro (経産省:「男女共同参画研究会」による報告)



ワーク・ライフ・バランスが叫ばれるときよく持ち出されるデータのひとつに、 「女性を活用すると企業の業績が良くなる」」というのがある。実際、女性比率の高い企業は利益率が高い(あるいは利益率の高い企業ほど女性比率が高い)。パッと見、夢のような話だよね?


だが結論から言えば、「女性の数を増やせば業績が良くなる」という因果関係はない。

企業の業績と女性比率はいわゆる疑似相関で、ほんとうの理由が他に存在するのだという。



たとえば、「法定以上の育休制度がある」「総合職採用に占める女性割合高い」「残業時間が短い」、「フレックス制度がない」「女性の転勤の可能性がない」といった企業は、女性比率は高くなる。たしかに転勤も残業もなければ子育てしやすそうだし、女性社員の数は増えそうだ。



だがこうした条件は、女性比率を高めるという意味では有効だが、かならずしも企業の業績アップに結びつくわけではないらしい。単に女性社員の数を増やし飼い慣らすだけで、企業の業績が伸びるわけではないということだ。



やみくもに「女性が働きやすくする」だけでは、生産性を高まるためのモチベーションは上がらないのだと思う。結局、男女双方にとって公正な評価システムを採用すると、女性も平等に昇進するし、簡単に辞めないということだろう。



女性が活躍できる風土のある企業とは、女性ばかりでなく "男女関係なく" 自己の能力が活かせる風土がある企業であり、結果的に業績が伸びるのである。だから「女性比率が高まると業績がよくなる」ように見えるという、ごくごく納得のいく結論である。




とすると、あえて嫌な言い方をするが、女性との対等な競争で「あぶれた」男性はどうなるのか


ネット上でときどき見る、「男女平等に競争するから内定率が下がる。男子だけ就活して、女子は婚活でいいんじゃね?」(ここまで極端なのはあまりないかもしれないけど)という声。



たしかに、全ての女性が就職せず主婦になってしまえば、残された男性による競争は多少楽になるだろう。主婦願望の20代女性も増えていることだし、色々解決しそうな気がする。



だがこの主張が見逃しているのは、そのような会社が業績を伸ばして経済全体が活性化すれば、労動のパイ自体が増えるという可能性である。「ワークシェア」という言葉が示すように、労働市場ゼロサム競争ではない



また、戦後長らく続いた「男が中心でアホほど働き、女は適当な腰掛け仕事+家事」なやり方で経済や社会が縮んでいっているのに、同じ方法を繰り返すことに、どれほどの意味があるだろうか。働きまくって過労死するのは常に男で良いのか。そもそも働くことと死が繋がっていること自体、どう考えてもおかしいよね。



そういう現状を変えるためにも「経済成長」って言葉は存在するし、少なくとも「公正な評価で男女ともに能力を活かす」未来は、一般職に応募してくる男子学生をdisることで何かが解決すると思っている上の世代の見る現実よりは、いくぶんかマシだと思う。

美しい日本の会社

こんにちは、kayaです。

今回は、日本の会社について書きます。といっても難しい話はできないので、印象論(こら)から始めてみます。


働き始めて改めて感じたのが、会社って本当に「尽くす人たち」を必要としているんだな、ということ。サービス残業も厭わず、ガンガン働いてくれる社員さんが、いちばん偉いんだよね。


そういう「会社のために尽くす」働き方は、日本の社会人が「就職」ならぬ「就社」をしていることの一側面だ、とはよく言われるけど(そしてもちろん、そういう働き方すらできない人も最近はとても多いんだけど)。


だから、多くの日本の会社は、「総合職」以外の「会社に対して部分的にしか貢献しない人間」に対してとても冷たい



たとえば一定の業務しかしない「専任職」や「派遣」「パート」は、会社に滅私奉公しないため、必然的に「総合職よりも劣った存在」扱いとなる。彼らは、会社からあてにされない代わりに安定を失う。


つまり、総合職以外の賃金では「一家を養う」ことができない。家族の中で誰か1人が総合職であることを前提としているから、「総合職以外」のお給料は安く抑えられる。


一方総合職は、「安定」の代わりに会社に対して「総合的に」(=無限に)尽くすことを求められる


彼らはその名の通り、何でもやります、という契約で採用されている。だから「自分の仕事はここまでです」という線引きができず職務範囲が無限に拡大する。全国転勤がその最たる例だよね。


この「総合職」たちの結束により、日本の会社は安定した共同性を保ってきた。だけど今、会社に対して部分的にしか尽くせない、尽くさない人たちもたくさん出てきている。そして当の「総合職」の中にも、以前のような「横並び感」はない。名ばかり管理職は果たして「総合職」なのか…



私たちのなかには「漠然とした不安」が広がっていると思う。



会社に尽くしても報われないかもしれないが、尽くさなければ、「必要とされない人材」になってしまうのではないか。フリーターにはなりたくないが、この残業が「成長」につながるのか分からない。派遣の仕事は楽しいが、一生時給1000円か…


そういえば少し前のBAILA(アラサーOL向けファッション誌)で、池上彰が読者の「漠然とした不安」に答える企画があった。


池上氏は、「僕が30代の頃は朝から晩まで働きまくっていたので、皆さんのように “漠然とした不安” を感じる余裕もありませんでした」と言っていた。


当時の彼が幸せだったかどうかは決められないが、美しい日本の会社、に尽くす生き方の典型ではあったと思う。

浅田真央はエッチすべきか

お久しぶりです!ちょっと痩せましたが、元気にやっております。kayaです。


今回はやや古い5月上旬の話題なのですが、ラサール石井氏の浅田真央はエッチすべき」発言について考えてみます。


「くだらん呟きばかりだとフォロワーさんに言われたばかりでなんだが。ちょっと暴言吐きます。浅田真央ちゃんは早く彼氏を作るべき。エッチしなきゃミキティやキムヨナには勝てないよ。棒っ切れが滑ってるみたい。女になって表現力を身に付けて欲しい。オリンピックまでにガッツリとことん!これは大事。」



4月30日頃、ラサール石井がつぶやいたこの発言には、

「分かる」「(彼女には)色気が足りないんですよね」というものもあれば、「それは言い過ぎでは」とか、果ては「クズ」だの「キモい」「ゴミ」だの、様々なコメントが寄せられた。
(togetterのまとめはこちら→http://p.tl/vMAl


この発言のみをもってラサール氏のことを「クズ」とまで言える権利は自分にはない。


とはいえ彼の言葉に違和感を感じてしまうのは、


「男から欲望される女はエロくて偉い」という考え方がにじみ出ているからだと思う。


彼の発言は、「女になる」=「立派な表現力を身につける」と読み取れるが、この場合の表現力とは何だろうか。男からみた何らかの「望ましさ」を身につけることが、「表現力」という言葉で言い換えられているだけではないだろうか*1


「女になって表現力を身につけて欲しい」という言葉の裏には、「“男を知らない”女は不完全な存在である」という、暗黙の前提があるように思う。


その対極にある、エロい女への無条件の賛美。エロい女が女の中で1番エラいなら、男からみて性欲を喚起しない女は、どうやって立てばいいんだろうか。


セックスには「する自由」「しない自由」があるのに、彼のような考え方はとても貧しいと思う。セックスしたらキレイになるとか、女性ホルモンがどうのとか、基本的にトンデモ科学だからね。


とはいえ、彼はちゃんと謝っていますが…↓


「様々なご意見を伺い、今から呟きます。できるだけ素直に呟きたいと思います。一昨夜の浅田選手に対する呟きは、どうしても呟かなければいけない事ではありませんでした。しかも最悪の言葉で呟いてしまったことは事実。ご批判は当然と痛感しています。

削除や訂正をすることは逃げることになるのでしたくありませんでした。しかし3万近いフォロワーを持つ公人の立場で呟く内容ではありませんでした。しかも私の対応遅延とリツイートによって、もっと多くの方に不快な思いをさせたことを深くお詫びいたします。


そして全女性の皆様、お名前を出してしまった各選手の方々、関係者各位、何より浅田選手ご本人とファンの皆様に心より謝罪いたします。なお、皆様のご意見を鑑み、前言を撤回。呟きは削除させていただきます。」
(togetterのまとめはこちら→http://p.tl/7Lqg



それにしても、ラサール氏への批判は酷いです。身勝手な同族嫌悪でないことを祈る。

*1:いや、それは「人生経験」のことでしょ、というなら、最初からそう言えばよかったのです

女を降りる勇気

お久しぶりです。4月以降、ぼんやりとモノを考える時間がめっきり少なくなってしまいましたが、元気でやっています。


どうも私は「女であることの違和感」にこだわってしまうタイプのようで、仕事中もときどき、考え込んでいます。(働けよ


たとえば「働くとき、女らしさを売りにするのはズルいし、売りたくない!」って思っていたけれど、実際は若い女」であるだけで、すでに自分は「売られている」ということが分かったり。


とても嫌な言い方をすると、売りたくないけど売らされている感じが、すごくある。


「誰もお前の“女”なんて買わねぇよ」とかそういう、個別具体的な問題ではなくて、この社会では、女であること=常にすでに性的商品であることを期待されているんだな、と実感することが、ときどきあります。


飲み会で、私より2つだけ年上の女性が「おばさん」呼ばわりされているのを見たとき。男性と同じようにスーツを着ているのに、ストッキングを履いた足が妙に生々しく感じられるとき。痴漢にあったとき。「ナチュラルメイク」を頑張ってしまうとき。


私から「若い女」であることを取り除いたら、いったい何が残るんだろう、と考え込んでしまいます(同じように、「自分から『若い男』であることを除いたら、何が残るのかな」って考える男性はいるんだろうか。いるかもしれない)。



仕事を始めて日が浅く、まだ何も誇れるものがない自分には、いつも「女」がついて回ります。だから、早く経験値を上げて年も取って、「人間」になりたい。……早く人間になりたぁあい!



ただ、いたずらに年齢を重ねても、女という属性にまつわる期待(例:美しくいなければ!)から自由にならない限り、私は「女」であり続けるんだろうなぁ、とも思う。最近だと、男性にも「見た目依存」の影響は及んでいるけれど(例:いわゆる、男性が「薄くなった髪の毛をどうとらえるか」問題、とか)。


おそらく、自分自身がいちばん、内面化された「女」を差別している。女でありながら、女という存在を見下している。


こんなことを考えるくらいならいっそ、「女」を降りてしまいたいのだが、そこまでの勇気はない。


それは私が、周囲の「女らしい女って素敵だよね」という期待に応えたいからです。この社会で女であることを嫌悪しながら、女であることで得られるアドバンテージを、手放せない自分もいる。


ただ自分が、そのアドバンテージを「手放したくない」のか、「手放すことを許されていない」のかは、判断がつきません。たぶん、どちらも正しいと思う。



そんなことを考えながら、しがないOLをやっております。

聖子の自由

地震原発の混乱もおさまらぬままですが、今回は少し、「女の欲望が許される条件」について書いてみます。


以前、野田聖子氏の高齢出産についてまとめたことがあるhttp://p.tl/k18U。彼女の決断にはそれなりの背景があったはずなのに、マスメディアは一様に「全てを手に入れようとする女の物語」として単純化してしまうのだった。



ところで、「全てを手に入れた女」のはしりといえば松田聖子である*1



彼女は1962年うまれ。野田聖子議員の2つ年下だ。1980年にデビューし、バブル期を「ブリッコ」として駆け抜けた。結婚、出産、2度の離婚、数々の不倫スキャンダルにもめげず、ゼロ年代の今もなお、「アイドル」として輝き続けている。



国会議員の野田聖子も、アイドルの松田聖子も共に、キャリアと子供という「多くの女が欲しがるもの」を手に入れた。どちらも「欲しがる女」である。*2



だが、松田聖子と同じように全てを手に入れようとする野田聖子は、女性からも男性からも非難された*3



上野千鶴子によれば*4松田聖子は、バッシングもされるが「目が離せない欲望のモデル」なのだという。私たちは皆、バッシングしながらも彼女のことを羨んでいる。子供もキャリアも恋人も欲しい。そんな彼女の欲望が許されるのは、どうしてだろう。


こう言っては元も子もないが、それは単純に松田聖子が美人だからだと思う。美醜という単純なモノサシで全てをはかることはできないが…



去年、柔道の谷亮子が選挙に出たときのことを思い出す。

「ママでも金」あたりまでは良かったが、「議員でも金」あたりから雲行きがあやしくなった。彼女は一気に男女双方から非難され(でも何を?)、週刊文春「女が嫌いな女」でも見事、ランク入りを果たす。


(※ただし、このランキングは「週刊文春の編集部が嫌いな女」でもあるので、注意が必要ではありますが。)



谷亮子のことを考えると、「不美人のくせに(それをわきまえず)全てを手に入れようとする女」は、同性からも異性からも嫌われるのかもしれない、と思う。野田聖子がもし松田聖子のような美貌とスタイルだったら、彼女の「欲望」はこれほど非難されただろうか。



ところでお分かりかもしれませんが、「全てを手に入れようとする不美人」が嫌われないコツが、1つだけあります。



それは、みずからの「傲慢さ」をわきまえていること



林真理子を思い出してほしい。彼女の作品には、「自分という女嫌い」通奏低音のように流れている。みずからの女性資源に対する冷徹な眼差しがあるから、林真理子の欲望は支持される。



こうしてみると私たちはきっと、「女の欲望」のままに全てを手に入れることに罪悪感があるのだと思う。だからそれを、あっさりとやってのける「自分以下の美貌の女」には、おそろしく厳しい。



「欲しがる女」が肯定される条件は、美貌である。だから思春期を経た多くの女は、諦めることを覚えるのだろう。 

*1:ちなみに小倉千加子は 『松田聖子論』(1989) において、70年代に「日本の女」として一世を風靡した山口百恵と、80年代を「ナショナリティを超えていく女」として駆け抜けた松田聖子を対照的に論じている。

*2:このテーマは以前ツイッターで、あるフォロワーさんから頂いたコメントがきっかけになって書きました(許可は頂いています。)

*3:彼女がたとえ、体外受精の高齢出産でなくても、彼女が事実婚であることは、保守系の男女からすれば気に食わないだろうと思う。

*4:『ザ・フェミニズム』ちくま書房、2005。

東北という物語

今回は松田聖子について書くつもりが、11日に大地震が起きてから思ったことを少し、書いておこうと思う。


日本の真ん中から上半分を襲った巨大地震から、1週間がたった。


被災した親戚いわく、「とにかくひどい状態」らしい。テレビ(うちはテレビがないのでNHKの音声だけだが)やラジオもほとんどが地震特番で、ツイッター上でも地震原発にかんするRTが溢れている。


今朝、出会った古紙回収のおじさんは、「東京出るのは止めた方がえぇで。あこらへん全部、水没するんちゃうかって言われてるで」と言っていた(ソースは不明)。関東の人たちが地方へ「疎開」する向きもある。余震が怖い。



地震直後から気になったのは、「千葉や茨城(や栃木、北海道や新潟、長野)もひどいのに、全然報道されない」という声だった。ネットなどを見ると、トータルで見れば「死者数」「行方不明者数」などは東北が圧倒的に多いけれど、関東やその他の地域でも、避難所生活を余儀なくされている人が沢山いるし、ライフラインの復旧も厳しいことがわかる。



「どうして大手メディアは東北のことばかり報じて、関東の被害は報じないのか」。もちろん被災者の数によるものだとは思うけれど、東北という土地には、何か大手メディアの罪悪感をかきたてるものがあるのかな、と思った。


大げさな話になってしまうけど、東京には戦後、田舎から多くの人がやってきた。特にたくさん出て行ったのは団塊世代で、彼らは兄弟が多かったため後を継ぐ必要がないから、田舎の家を出て、東京で新しい核家族をつくった。


田舎はその代わり、地方選出の国会議員たちが予算をとってきた公共事業で、土建国家として栄えた。地方の土建屋さんが造った無数の道路は都市へとつながり、若者はさらに、東京へ出て行った。そのうち若者がいなくなり、お年寄りばかりになった。


今テレビにうつる東北の避難所では、8割がお年寄りというところもある。戦後の復興期、東京へ出て行かなかった人たちがお年寄りとなり、避難所で毛布を分け合っている。多くのお年寄りは、東京に出て行った団塊世代のちょうど親に当たる世代である。


公共事業が減らされ、地方が土建国家としての体をなさなくなってから、地方はどんどん小さくなっている。それでも地方は、(もはや当然の前提になってしまっているが)東京の存在がないと生きていけない。福島にある原発の電気を使うのは東京都民である。東北新幹線ができたとき、誰もストロー効果を言わなかった。言ったけど、その声は「ようこそ青森へ」の声にかき消された。 



東北という土地の避難所の風景には、日本の「戦後」が集約されているように思える。これは大げさな比喩だし、感想の域を出ないんだけど。だけど、大手メディアが東北の惨状ばかり映す気持ちは分からないでもない。




だが東北が、震災という「悲劇の共同体」の物語のために消費されていくのは、見ていてつらい。




結局何が言いたいんだとか、「論理的」ではない、と思われるかもしれませんが、このブログはこんな感じで毎回、思ったことを少しだけ掘り下げて考えています。私などは、今は募金くらいしかできませんが、被災地の復興を心からお祈りしています。

「何でも欲しがる女」のこと

少し前の話だが、自民党野田聖子議員(50)が体外受精男児を出産した。


彼女の頑張りに、多くのメディアは祝福ムードだったと思う。だがウェブ上に溢れていたのはむしろ、彼女をあざ笑う罵詈雑言の数々だった。週刊誌も酷い。男性向け、女性向けを問わず、彼女の高齢出産を「ダシにする」記事が多かった。

「え、そこまで凄かった?」って思う人は、“野田聖子 出産”とかでググってみて下さい。


「キャリア女性の高齢出産」が、30代向けの女性誌でとりあげられるようになってから、しばらく経つ。米澤泉によれば、これは「負け犬」が流行語になった2004年あたりからみられる傾向らしい*1



キャリア女性の出産や育児を考えるとき、必ずつきまとうのが、「何でも手に入れようとする女」というイメージである。



「仕事上の地位も、美貌も手に入れた。あとは子どもだけ!」みたいなキャリア女性のイメージが、高齢出産や不妊治療と結びつくとき、なぜかそこに「強欲な女」像ができ上がる。



先ほどの米澤泉も、そんな女たちのことを「強欲」とまでは言っていないが、自己実現的な出産や育児を評して「小道具」ならぬ「子道具」と述べる。実にキャッチーです。




だがそもそも「何でも手に入れようとする女」など、現実にいるのだろうか。 そういう女がいるとして、その女は本当に、「何でも手に入れようとする」だけの存在なのか。



たとえば野田議員が「産むこと」の裏には、色んな葛藤があったはずである*2。それでも最終的に、産みたいと思ったから産んだ。彼女をバッシングする人たちは、当たり前だがそういう過程をすっ飛ばし、単なる「強欲な女キャラ」として叩いている。



そのほうが、彼女を試行錯誤するひとりの“人間”として見なさなくても済むからラクなのだろう。だが実際は、欲望「だけ」で突っ走れるほど不妊治療は甘くないと思う。



ところで多くの会社にとって、まだまだ女性社員の出産や育児はコストでしかない
この社会=会社で、男に頼らず生きようと思ったら、普通は「男のように生きるしかない」ようだ。それも「立派な男」である必要があるそんなの、今の自分にはとてもできる気がしないから本当は働きたくな


そんな会社=社会のなかで子どもを産んで休めば、何かが変わってしまう。そう思ってバリバリ働いてきた。そうして今やっと「欲しがる女」を、「何でも欲しがったから」という理由だけで責められるはずはない。


そもそも女たちは、「欲しがる」ばかりでなく「欲しがらされている」可能性だって十分にある。ジラールを待つまでもなく、欲望は常に他者の欲望である。また「欲しがらされている」からといって、その女のやっていることを一方的に非難してよい、とはならない。




だが「彼女を非難したい人たちが、何を望んでいるのか」も、ある程度は分かる気はする(共感はしたくないが)*3



欲しがることに、やっぱり妙な罪悪感があるからだ。女の欲望が、何かと両立しない。女が何かを欲望し手に入れることが、ある規範と矛盾してしまう。※資本主義とは矛盾しないんですけどね。だからこそ、バッシングする人たちは「出産という自然」を賛美します。


……私が自己の欲望を語るのをおそれる理由はここにあって、「何でも手に入れようとする女」であると見られることが、単純に怖いのかもしれない。




次回は“もう1人の聖子”=松田聖子と「欲しがる女」の条件について書こうと思います。引き続きお読み下さると嬉しいです。*4

*1:『私に萌える女たち』講談社、2010

*2:彼女はその辺のことを、『私は、産みたい』という本に著している

*3:もちろん彼女が政治家で、めぐまれた境遇にあることも影響しているだろう。それ以外の「バッシングの原因」は、次の記事に書いてみます

*4:このテーマは以前ツイッターで、あるフォロワーさんから頂いたコメントがきっかけになって書きました(許可は頂いています。)